みなさん、おはようございます!こんにちは!こんばんは。Jindyです。
情報を集めたのに、判断できない。数字はそろったのに、現場が分からない。説明を聞いて納得したのに、自分ではできない。そんな経験に心当たりがあるなら、この記事は少し役に立つと思います。情報が増えることと、理解が深まること。その間にある溝を、宇宙の話から会計や仕事の足元まで降りて考えてみます。
以前は、宇宙の正体は情報なのだと考えていました。物質も生命も、突き詰めれば情報の配置なのではないか。そう考えると、世界がきれいにつながる気がする。
でも今は、少し違う。情報は世界の材料というより、私たちが世界を切り分けたときに立ち上がるものではないか。何かを知ろうとして対象を定め、違いを取り出す。その結果を、情報と呼んでいるのではないか。
これは宇宙の正体を証明する話ではありません。自分の理解の仕方を問い直す話です。そして、決算書やKPIを扱う人には、案外遠くない問いでもあります。私たちは毎日、現実に線を引いて数字を作っているからです。
情報は問いの形で立ち上がる – 世界に線を引くと何が起きるか

海を前にして、波の高さを測る。水温を測る。塩分を測る。どれも正しい観測です。ただ、その一覧を渡された人が、海を知ったと言えるのか。ここから話を始めたい。
答えを作る前に、問いが世界を区切っている
目の前には、波も風も光も音もある。そこへ水温という問いを置いた瞬間、私たちは温度に関係する違いを取り出します。波の音や潮の匂いは、今回の測定では脇へ寄る。
同じ海でも、水温を知りたい人、船を出したい人、泳ぎたい人では、必要な情報が違う。対象が変わったのではなく、何を区別するかが変わったのです。温度計が作ったのは海そのものではない。海のある側面を読める記録です。
情報理論を築いたクロード・シャノンは、通信を、可能なメッセージの中から選ばれたものを伝える問題として扱いました。意味の豊かさより、区別できる選択肢やその確率が中心になります。ここでいう情報量と、人生にとっての意味の深さは別物です。[1] people.math.harvard.edu
だから、情報には区別の枠組みが要る、という見方には足場がある。ただし、そこから情報は人間が勝手に作った幻だと進むのは早すぎる。水温は好きな数字にできないし、間違った測定は別の測定でばれる。問いは私たちが置いても、答えには世界からの制約があります。
観測するのは、人間の意識だけではない
ここで量子論を持ち出すと、話が急に危なくなります。観測によって結果が得られる、と聞いて、人が意識を向けたから現実が生まれる、と読み替えてしまう。魅力的ではある。でも、その二つは同じ主張ではありません。
ロヴェッリの関係的量子力学では、ある系の状態を、別の物理的な系との関係から記述します。観測者は特別な人間である必要がなく、測定装置なども含まれる。この立場で問われるのは、意識の魔法ではなく、系同士の相互作用と記述の関係です。[2] arxiv.org
もちろん、これは量子論の一つの解釈です。宇宙の唯一の正解として採用することはできない。さらに、情報の獲得に関する原理から、量子ビットの理論を組み立て直す研究もあります。情報を土台にする考えには、単なる流行語ではない、数理的な仕事があるわけです。[3] arxiv.org
情報を使って物理法則を記述できることと、宇宙の材料が情報だということも分けたい。会計で会社を記述できるからといって、会社が勘定科目でできているわけではない。この比喩は物理学の反証にはなりませんが、説明の道具と、説明されるものを混同しないためには役立ちます。
未分割の世界も、簡単には言葉にできない
では、世界を未分割のまま受け取れば、全体が分かるのか。そこにも落とし穴があります。未分割という言葉を使った時点で、すでに分割されたものとの対比を作っている。境界を消す説明にも、境界が入り込む。なかなか手強い。
しかも、言葉で分類する前の経験があることと、宇宙には物理的な違いや構造がないことは別です。こちらが名前を忘れても、熱いものに触れれば熱い。未分割は、世界の違いを否定する呪文にはなりません。
私がいま関心を持っているのは、全体を言い切ることより、切り分ける前の接触へ戻れるか、ということです。海を、水温だけで見ない。人を、評価項目だけで見ない。数字にするために棚へ上げたものを、もう一度視野へ戻す。
情報は世界を扱いやすくしてくれる。その便利さと引き換えに、ある関係や文脈が見えにくくなる。これは情報が悪いという話ではありません。便利な道具ほど、それが落としたものを自分で取りに行く必要がある、という話です。
宇宙の正体については、ここで結論を出せません。ただ、自分が受け取っている情報が、どんな問いと区切り方から生まれたのかは確かめられます。答えを増やす前に、答えを作った枠を見る。その順番には、実務的な意味があります。
資料の項目が増えるほど安心するのは分かる。でも、同じ切り口を細かくしただけなら、見える範囲はあまり広がらない。拡大鏡を強くしても、向けていない場所は見えません。
知るとは関わり方が変わること – 説明できても泳げない理由

情報として持っている知識と、実際に世界へ働きかけられる知識。その違いを考えると、知るとは成ることに近い、という感覚が少し具体的になります。
泳ぎ方の説明書は、身体を浮かせてくれない
泳ぐ仕組みを説明できても、泳げるとは限らない。息を吐くタイミング、水の抵抗、力を抜く感覚。知識は練習の助けになりますが、紙の上で全部そろえても、身体と水の関係はまだできていません。
実際に水に入ると、こちらが動けば水の返し方も変わる。その返りを受けて、また動きを変える。こうして、世界を読む力と、世界へ働きかける力が一緒に育つ。泳ぐ人は、水についての説明を持つだけでなく、水と動ける人へ変わっていきます。
ポラニーの暗黙知という考えは、言葉にしきれない知の働きに目を向けます。また、オレガンとノエは、見ることを環境を探索する活動として捉える理論を提案しました。後者は視覚をめぐる理論で、あらゆる知識についての結論ではありません。それでも、受け取るだけの認識像を問い直す手がかりになります。[4][5] 筑摩書房
ここでの成るは、海という物質に変身することではない。海と関われる自分になることです。説明を覚えて終わるのではなく、状況が変わったときに何へ注意し、どう動き、何を修正するかが変わる。その変化まで含めて、知ると呼びたい。
自分と対象を分ける前の経験を考える
西田幾多郎は『善の研究』で、純粋経験を考察しました。色を見たり音を聞いたりする、その経験に、私が感じている、これは外の物だ、といった判断を重ねる前へ目を向ける。主観と客観を、最初から別々の箱に置かない考え方です。[6] aozora.gr.jp
たとえば音楽に聴き入っているとき、毎秒、自分と音を仕分けているわけではない。あとで言葉にすると、私が曲を聴いたという形になる。しかし、経験している最中の豊かさが、その一文にすべて収まるとは思えません。これは日常の例を使った私なりの解釈です。
ただ、境界が目立たなくなる感覚を、真理をつかんだ証拠にはできない。夢中になった人でも誤解はするし、一体感を覚えたから他人の気持ちが全部分かるわけでもない。むしろ、分かったつもりが強まる危険さえあります。
主客の境界を疑う意味は、自分を万能な観察者にすることではないでしょう。自分もその場に関わり、見方を変えられる存在だと認めること。相手を外側から採点して終わる姿勢を、一度緩めることです。
言葉にできない知を、言葉で捨てない
説明できないなら分かっていない。仕事でも勉強でも、よく使われる言い方です。説明を求めることで、曖昧さや思い込みが見つかる。それは確かにあります。
でも、説明する力と、適切に動く力は同じではない。実務で違和感のある資料を見つける力も、最初から判断手順を全部言語化できるとは限りません。何に気づいたのかを振り返って、後から手順が見えてくることもある。説明が遅れている知まで、存在しない扱いにするのはもったいない。
ヴァレラらの『身体化された心』は、認知を身体の行為として捉えるエナクティブな立場を展開します。理解を、頭の中に情報を収納することだけで考えない。その方向は、今回の問いとよく響き合います。ただし、その立場を採れば直感が必ず正しくなる、という保証はありません。[7] kousakusha.co.jp
だから、体感を認めたあとには検証が要る。違和感を言葉にし、資料へ戻り、他の人にも確かめてもらう。説明しきれないから切り捨てるのも、説明できないから深いと持ち上げるのも、どちらも雑です。知を育てるには、その間で粘るしかない。
知ることで、何が変わったのか。説明の長さより、こちらを問うほうが、理解の手触りを確かめられる場面があります。前は見逃した違いに気づけるか。前と違う状況でも動けるか。外れたときに修正できるか。
もちろん、世界に深く関わった人でも、世界の全部を知ることはできない。成るという感覚は、全知への近道ではなく、自分の知り方にも変化が必要だと認める入口なのだと思います。
数字の境界から現場へ戻る – 決算書とKPIが取りこぼすもの

ここまで来ると、宇宙の話が急に経理へつながります。会計は、現実を切り分けることを、とても丁寧に制度化した仕事だからです。数字を作る側に立つと、その線がよく見える。
会社は、決算日のところで活動を止めない
事業は続いている。でも決算では、ここまでを当期、ここからを翌期と切り分ける。さらに、どの会社まで報告に含めるか、何を資産や負債として認識するか、どんな方法で測るかを決めます。IFRSの概念フレームワークでも、報告企業の境界、認識、測定などが扱われています。[8] Conceptual Framework for Financial Reporting
この区切りがあるから、成績を比較でき、責任を問い、資金を預ける判断ができる。境界を作ることには、ちゃんと価値がある。宇宙は未分割だから決算も不要です、と言われたら、経理屋としては困ります。締切は悟りを待ってくれません。
たとえば、条件を満たして売上を計上し、まだ入金されていない取引。損益では売上になっていても、現金にはまだなっていない。利益という切り口で分かったことと、資金繰りという切り口で分かることは違います。数字の矛盾ではなく、答えている問いの違いです。
連結でも同じです。グループ内の売上は、それぞれの会社には取引でも、グループ全体を一つとして見ると外部への売上ではない。どこを報告の境界にするかで、示すべき数字が変わる。会計は勝手な数字遊びではなく、境界を明示し、ルールに従って現実を表す技術なのです。
KPIは、見るだけでなく人を動かす
会計の区切りと、評価の区切りは、また少し違います。KPIを報酬や評価につなげると、人はその数字を意識して動く。測る仕組みが、測られる側の行動へ入ってくるのです。
仮に、問い合わせ対応を処理件数だけで評価する職場を考えてみましょう。一つの相談を複数件に分ければ、件数は増えるかもしれない。難しい相談を後回しにすれば、短時間で処理できる件数は伸びるかもしれない。どちらも架空の例ですが、件数の改善と、顧客の問題の解決が一致するとは限らないことは分かるはずです。
ミュラーの『測りすぎ』は、業績を数値で測ることへの固執と、それが組織にもたらす弊害を扱います。実務へ引きつけるなら、数字が何を表すかに加えて、その数字を目標にすると何が起きるかまで考える必要がある、ということです。[9]
ここで、量子論と同じだと飛びつく必要はありません。人が評価に反応することには、それ自体の仕組みがある。観測という同じ言葉だけで、物理学と組織論を一つにしてしまうと、かえって何も説明できなくなります。
投資家は、数字の外側へ一度出る
投資で怖いのは、情報不足だけではない。同じ種類の情報を大量に集め、企業を理解した気になることです。利益率、成長率、評価倍率。どれも使える。でも、表の行が増えたことだけでは、商売の理解が増えたとは言えません。
たとえば利益率が上がったなら、価格を上げられたのか、販売構成が変わったのか、費用を抑えたのか。その違いで、翌期以降の見通しは変わります。入金より先に売上が伸びているなら、売掛金や回収条件も見たい。これは特定企業への評価ではなく、数字から事業へ戻る読み方の例です。
数字の外側へ出るといっても、雰囲気で投資するという意味ではありません。企業の開示で前提を確かめ、商品の使われ方や顧客の選択肢を調べ、そこで立てた仮説をもう一度財務へ戻す。現場の印象にも偏りがあるので、照合は省けない。
資料を読むときに、ひと呼吸置いてみる。この数字は何を区切った結果か。区切りの外へ何を置いたか。そして、この測り方を目標にしたら誰がどう動くか。問いを少し変えるだけで、同じ資料から読めるものが変わる。そこには、分析と関与を往復する余地があります。
会計の専門性は、数字を疑わず信じることでも、数字を全部相対化することでもありません。数字が何を表せるかを知り、そこに収まらない関係を必要に応じて確かめることです。区切った責任と、区切った限界を、両方引き受ける。
世界をすべて一枚の表にしたい気持ちは分かります。けれど、よくできた表には、表の外を確かめる手順も要る。見える数字を整える仕事と、見えなくなったものに気づく仕事は、どちらも判断を支えます。
結論 世界を言い切る前に、世界に触れる
説明できる人になりたい、という願いはよく分かります。説明ができれば、他人へ伝えられるし、自分も安心できる。でも、きれいな説明を手に入れたところで、こちらが何も変わっていないこともある。
情報を持つことが、理解を持つことの代わりになっていないか。これはAIから整った回答を受け取るときにも、自分へ返しておきたい問いです。回答を読めるようになったのか、それとも、その場で違いに気づき、動き、間違いを直せるようになったのか。
世界を切り分ける力は、これからも必要でしょう。そのうえで、切り分けた世界に自分を閉じ込めない力も育てたい。人に会い、手を動かし、状況に触れ、そこで生まれた違和感を持ち帰る。説明が現実に負ける瞬間を、恥ではなく、知り方が変わるきっかけとして受け止める。
宇宙の正体を言い切れる日は、来ないかもしれません。それでも、世界との関わり方は今日から変えられる。知識を増やした自分のままで立ち止まらず、その知識で何かが見える人へ、何かができる人へ、少しずつ成っていく。その変化は、説明の上手さだけでは測れません。
分かったという言葉を、少しだけ遅らせる。そこからしか触れられないものが、まだある気がするのです。
情報の先にある理解を考えるための5冊
1.『善の研究』西田幾多郎 著/小坂国継 注釈・解説
自分が見る側、世界が見られる側。その配置を当然と思っていると、今回の話は抽象論に見えるかもしれません。『善の研究』は、その出発点そのものを問い直す古典です。純粋経験から実在、善、宗教へと考察を進め、経験に判断を加える前を考える手がかりを与えてくれます。ここで紹介する版には注釈と解説があり、難しい言葉で立ち止まったときの助けになります。主客の境界を疑うとは何を疑うことなのか、根元から考えたい人向け。身体の技能を扱う本や量子論の本とは違い、経験をどこから考え始めるかが中心です。科学の実験結果として読むのではなく、自分が当たり前に使っている認識の枠を点検するために読むと、記事の問いが一段深くなります。
2.『暗黙知の次元』マイケル・ポランニー 著/高橋勇夫 訳
説明できない知を、ただの勘として片づけてよいのか。この疑問にはポランニーが合います。言語化されない知の構造を考え、それが日常の知覚や行動だけでなく、科学的な探求にも関わることを論じる本です。経験者の判断をすべて手順書に移せば、同じ仕事ができるのか。言葉にできる部分だけを集めたとき、何が残り、何が抜けるのか。そんな仕事の問いを持って読む入口があります。ただし、ベテランの感覚を無条件に正当化する免許証にしてしまうと、今回の記事から離れてしまう。暗黙の知を認めることと、判断を検証することを両立させたい人向けです。ほかの四冊と比べて、宇宙全体の構造より、私たちの知がどのように働くかへ焦点を絞って考えられます。
3.『生きていること 動く、知る、記述する』ティム・インゴルド
世界を外から眺め、情報を集めるだけで、本当に理解したことになるのか。インゴルドは、歩く、つくる、観察するなどの営みを通じて、人と世界の関係を捉え直します。世界へ働きかけるうちに、自分自身も変わっていく。その視点は、今回の記事の知るとは成ることに近いという問いとよくつながります。目次には、足を通して知覚することや、技術に熟練していく過程、行うことと観察することの関係などが並びます。知識を頭に収納するだけでなく、世界と関われる自分になるとはどういうことか。そこを深く考えたい人に向く一冊です。ほかの四冊と比べ、人類学や手仕事、日常の動きから理解のあり方へ近づく役割として選びました。
4.『世界は「関係」でできている 美しくも過激な量子論』カルロ・ロヴェッリ 著/冨永星 訳
関係という言葉を、対人関係や気分の話からいったん離し、物理学の問いとして考えるための一冊です。ロヴェッリは量子論の歩みと核心をたどり、固定した実体だけから世界を理解する見方を揺さぶります。今回の記事で触れた関係的量子力学の背景へ近づく入口にもなる。ただし、著者が示す世界像を、物理学者全員が合意した最終結論として受け取らないことは忘れたくありません。人間の意識が宇宙を自由に作るという話へ飛躍せず、どの物理的な関係について何を記述しているのかを意識して読むと、哲学的な刺激と科学的な慎重さを両立できます。五冊の中では、世界の構造をめぐる物理学から今回の問いに入る役割。身体や経営の話と同じに見えたところこそ、違いを確かめたい本です。
5.『測りすぎ なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』ジェリー・Z・ミュラー 著/松本裕 訳
宇宙の話を会議室へ戻すなら、この本がいちばん近い。教育、医療、ビジネスなどを題材に、業績を測定することへの固執が、組織をどのようにゆがめるかを考察します。測れることと、測る価値があることは同じなのか。数字の改善が、仕事の改善を意味しなくなるのはなぜか。KPIや人事評価を設計する側にも、評価される側にも関係する問いです。目次や巻末のチェックリストからも、測定を全面否定するのではなく、いつ、どう使うかを考える本だと分かります。今回の主題を経営判断へつなぐ役割として選びました。ほかの四冊が認識や世界像へ向かうのに対し、この本では測る仕組みの具体的な影響を点検できます。数字を減らすことより、数字の使い方を変えたい人に向いています。
仕事の数字から考えたいなら『測りすぎ』、説明できることと分かることの違いが気になるなら『暗黙知の次元』から。主客の境界そのものへ進むなら『善の研究』、身体と認知のつながりを深く掘るなら『身体化された心』へ。物理学から問い直したい人は『世界は「関係」でできている』を入口にし、哲学の問いと物理学の主張を分けながら読むと、五冊を混ぜずに対話させられます。
それでは、またっ!!
引用論文・参考文献
- [1] Shannon, C. E. (1948). A Mathematical Theory of Communication. The Bell System Technical Journal, 27, 379–423, 623–656. 公開原著
- [2] Rovelli, C. (1996). Relational Quantum Mechanics. International Journal of Theoretical Physics, 35, 1637–1678. 著者公開版
- [3] Höhn, P. A., & Wever, C. (2017). Quantum theory from questions. Physical Review A, 95, 012102. 著者公開版
- [4] ポラニー『暗黙知の次元』高橋勇夫訳、筑摩書房。本文では出版社の内容紹介・目次を参照。出版社
- [5] O’Regan, J. K., & Noë, A. (2001). A sensorimotor account of vision and visual consciousness. Behavioral and Brain Sciences, 24, 939–973(付随する討論を含む公開PDFは1031頁まで)。公開原著
- [6] 西田幾多郎『善の研究』第一編・第一章「純粋経験」。公開本文
- [7] ヴァレラ、トンプソン、ロッシュ『身体化された心』田中靖夫訳、工作舎。本文では出版社の内容紹介・目次を参照。出版社
- [8] IFRS Foundation. Conceptual Framework for Financial Reporting. 公式概要
- [9] ミュラー『測りすぎ なぜパフォーマンス評価は失敗するのか?』松本裕訳、みすず書房。本文では出版社の内容紹介・目次を参照。出版社
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